「逗子はなぜ逗子なのか?」11/7放送「ちょっとリュクスな湘南散歩」
2013年 11月 10日

秋、深まってきました。
ラーキーこと、旅行作家の荒木左地男です。
3週間前に「葉山はなぜ葉山なのか?」というテーマで、地名の由来からはじまる散歩をご案内しました。
今回は、第二弾「逗子編」というわけです。
ところで、全国のJRの駅をアルファベット順位並べると、一番最後の駅はどこかわかりますか?
この流れですから、答えはもうおわかりですね。そう。ZUSHIなんです。ちなみにトップはABASHIRI。ちょっとした小ネタに使って、逗子スキをアピールしてみてはいかがでしょうか。
さて、本題に戻って。
なぜ逗子という地名が誕生したのか。新逗子駅のそば、いまの逗子文化プラザがあるあたりにその源がありそうです。
有力な説はふたつ。
ひとつは、田越川沿いの延命寺に伝わるもので、弘法大師(空海)がここに祭られた地蔵尊のために厨子(ずし=仏像などを納める扉の付いた法具)を寄贈したことから始まったという説。

そしてもうひとつは、辻子(ずし)から来たという説。辻は通りとか横道という意味。逗子文化プラザのあるあたりに、かつて郡衙(ぐんが)という今で言う役所のようなものがあり、こここら古東海道や近郷につながる道がわかれていたところから、「ずし」よ呼ばれるようになったというのです。

ふたつの説が期せずしてほぼ同じ場所を発祥の地としているところもおもしろいですね。
というわけで、延命寺にお参りし、逗子文化プラザとバイク屋さんのあいだの小道(これが古東海道だったようです)を抜けて、かつて逗子を愛した文豪たちが往来したであろう海辺までの道を歩いてみたいと思います。
蛇行する田越川に沿うように、逗子ゆかりの作家たちの足跡を残す場所が点在しています。

徳富蘆花が「不如帰」を執筆した柳屋旅館跡。ここは国木田独歩がしばらく新婚生活を送った場所でもあり石碑が建っています。その裏手には徳富蘆花記念公園があり、海を見下ろす光景が見事です。
海岸には石原慎太郎の「太陽の季節」の碑が。

そしてぜひ訪ねたいのが、「なぎさホテル」跡。大正15年に建てられた湘南初の洋館リゾートホテルで、多くの文人・著名人が定宿にしたホテルです。
作家の伊集院静がなんと7年半にわたって逗留していたことも有名で、CM演出家として名をなした伊集院が広告会社を辞め、家族とも別れ、失意の中でふらりと逗子を訪れたとき、なぎさホテルの支配人と出会い、「お金なんていりません」と部屋を提供したという話が伊集院の著書「なぎさホテル」に書かれています。

平成元年にホテルは取り壊され、跡地はファミリーレストランになっており、残念ながらクラシックな洋館の姿は見ることができません。
けれど、跡地に立って逗子海岸を眺めてみると、海から吹く心地よい風が、伊集院を始め多くに人たちがこのホテルを愛し、逗子を愛した訳を教えてくれるのではないかと思います。
逗子の地名の由来となった「辻」つまり人々の行き交う場所というような意味が、昔もいまも、逗子の本当の魅力を表していることに、きっとあなたも気づくのではないでしょうか。